本当に毎週欠かさず、文学部の友達4人でスカイプをしている。
カタンをしながらスカイプ。
酒を飲みながらスカイプ。
大学生の頃よりも大学生みたいなことをしている。
ちなみに大学生の頃は毎週のようにカラオケ。
高校生みたいなことをしていた。
先週は死生観について話した。
俺はいつも死ぬことを非常に恐れている。
今死んだらどうしよう、とかよく思う。
例えば急に何かしらの理由で自分が死ぬことになったする。
俺は到底その事実を受け入れられない。
多分成仏せずに現世を彷徨い続ける。
俺の死生観では、人間は”お年寄り”になったときに初めて死を受け入れられる。
これは大学の時に習った知識を元に生み出した死生観だ。
(ググったところ、エリクソンの発達段階論のことのようです。
参考→https://kodomo-manabi-labo.net/erikson-developmental-stages)
だから、”お年寄り”になるまでは、死ぬことはひたすら恐怖であり、到底受け入れられないものなのだ。
でも友達の考え方は違った。
俺以外の3人のうち、2人はある日突然自分が死ぬことになっても、受け入れられるというのだ。
「あぁ、俺死ぬのか。短い人生だったけどそれなりに楽しかったな。」
と思えるらしい。
意味がわからなかった。
ひょっとして現世で死んでも、また生まれ変わる(輪廻する)と思ってるのかな。
そう信じようとしたが、死んだらどうなるかという問いについて、彼らは「ひたすらに”無”やろな」と答えた。
なんで君たちは「ひたすら”無”」が怖くないの?
2人に対して信じられないと反論したら、悟ったように
菊池は現世に何かを残したいという思いが強いんやろうな。
と言われた。
その通りだと思う。
逆に君たちは現世に何も残したくないの?
結局ずっと
ふとしたときに自分が突然死ぬパターンが何通りも思い浮かんできてしんどくなるとか、
自分が死んだら親とか周りの人が悲しむの想像したら死にたくないなって強く思うとか、
そんなことを延々と俺が主張し、
その度に優しく諭され、
終いには『仏教ウェブ入門講座』を紹介された。
もう1人の友達が島田紳助の理論を教えてくれた。
“人は生まれ変わっている。
生まれ変わっている回数は人によって違う。
人間ができている人は人間を何周もしている人であり、
反対に人間ができていない人は初めて人間になった人なんだ。”
的な感じだったと思う。
とりあえず俺はこの理論を信じて(うろ覚えだったけど)、
自分は人間歴浅めだから死んだらどうなるか分からなくて怖いんだ。
死んだらさらにできた人間になって生まれ変わるんだ。
と思うことにした。